何だか頭の体操みたいな問題だね。
問題を理論的に考えるには、様々な角度からの検討が有用じゃ。
このサイトの話題はすべて実例ベースじゃが、これも国際学会で討議された質問じゃ。
現場的な発想だとなかなか出てこない質問だと思うけど、どこまで画像の美しさを求めるかと共通するお話しだね。
質問の意味合いは理解できるかな?
線量を上げると画質がよくなるけど、小児だと単位線量あたりのリスクがより大きくなるということですね。
線量の最適化の観点からはリスク係数が大きい分、画質を落とす必要があるのだろうか。
でも、なんか変だ。
放射線リスクと診断がもたらす便益の比較だけを考えてみると、
小児では、
・放射線感受性が高いので単位線量あたりの寿命短縮が大きい。
で一般に、
・線量が大きいほど情報量が増える。ただし、線量が増えると、Δ情報量増加/Δ線量増加は小さくなる。
これに、
・「ΔQOL増加/Δ情報量増加」の年齢依存
も考えることになりそうじゃ。
検査で疾患による死亡確率を減らせるとすると、
寿命延長効果は小児の方が高いとなりそうだね。
だとすると、相対的にリスクが増えても便益も増加しているので、画質を落とさなくても最適化が達成されると言うことか。
リスクと便益のバランスは状況によって異なるので、放射線検査が正当な放射線利用にあたるかどうかや、その照射条件が最適化されているかどうかは、場面により異なるということだな。
面倒な感じがする。
個々の状況で判断分析を修正するのは、放射線に限った話ではないので臨床医はセンスとして持っておるのではないかな。
また、通常は、リスクに比べて便益がうんと大きいので、リスク推計の不確かさは臨床的な判断分析の結果に影響は与えないじゃろ。
でも、専門家は実効線量を使ったリスク見積もりには強い警告を発していますよね。
その一方でリスクと便益を比較して正当性を確認することも強調されている。
簡単なリスク見積もりの方法を禁じておいて、通常診療での配慮が足りないと非難するのはダブルバインド的なメッセージじゃないかなあ。
実効線量は実際的な曝露量指標としては、仮定としてる条件が多すぎてラフすぎる上に、 チョルノービリ(チェルノブィリ)事故での過剰死亡の見積もりで不確かさが考慮されていないと思われていることに専門家は危機感を抱いているからじゃろ。
医学教育では臨床疫学の講義が充実するようになったから、限界があることを臨床医は理解できると思う。
現場的に考えると、胆石発作に対してERCPで治療して痛みを和らげ、症状の進展を防止する場合の利益と放射線のリスクの比較を考えると、乱暴すぎる推計かもしれないけど、
・放射線のリスクは大きくてもたかだか4日程度
(10[mSv]×5×10-2[death/Sv]×20[y/death])
・照射条件を工夫して線量を半分に減らすとその寿命短縮がたかだか2日程度に改善される
・後で検討のために撮影を5回追加すると最大見積もりで1時間の寿命短縮リスクをもたらす
(30[μSv/exposure]×5[exposure]×5×10-2[death/Sv]×20[y/death])
などというラフな見積もりをしておくと、治療や検査の便益の方が大きいことが理解できるのではないだろうか。
その一方、放射線の利用を最適化することによる安全性の向上も不確かさは大きいものの、線量低減にどの程度のエフォート割くべきかにある程度の見通しを与えることができるのじゃないかな。
しかし、この種の検討には倫理面で深刻な限界に突き当たることになる。
何による寿命短縮を回避したいかが主観的には重要なので、原理的には、この考え方が公衆衛生上の倫理として妥当かどうかは話は別じゃ。
QOLはそもそも主観的なものなので、主観的な功利主義だと余命延長の年齢依存の重み付けが変わってくる。
また単純に、客観的な功利主義の立場で考えた場合に、同じ救命では小児を重んじることになるが、それで社会のコンセンサスが得られるかどうかは別のお話じゃろ。
医療や研究は何らかの幸せ度の向上を目指しているので、アウトカムを幸せ度の向上と考えて資源配分すべきだけど、それをどう実現するということかな。
混迷の時代には公衆衛生倫理がはやるけど頭がこんがらがってしまう。
とりあえず三角窓を考えて、その思想がどこに位置するかあてはめてみるとよいのではないじゃろか。
何でもそもそも何を目指しているかをもとにして考えてみると言うことになりそうだね。
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